も う一つの沖縄戦・女子学徒看護隊の戦い

「・・・沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス・・・」昭 和20年(1945年)4月9日に、沖縄駐留第32軍(球部隊)参謀長・長勇陸軍中将が発した命令の一節である。
 日本軍の犠牲者11万人(沖縄現地召集4万5千人)に匹敵する9 万4千人以上もの非戦闘員犠牲者を出した沖縄県民を、こともあろうに防衛主務者である軍首脳が露骨に差別視しているようでは、無念の涙を飲んで死んでいっ た人々の心中を思うといたたまれない。そのなかでも、「ひめゆりの塔」で印象深い女子学徒看護隊の献身的活躍と悲惨な最期は永く記憶に止められるべきであ ろう。
 女子学徒看護隊は昭和20年の地上戦開始直前になって緊急に編成 された。学徒動員令に基づくものにせよ、この慌ただしさと、基本的には素人である女子高生を野戦病院看護要員として最前線に動員せざるを得なかった点に、 沖縄作戦全体の杜撰さが端的にうかがわれる。
 なぜなら、第32軍司令官牛島陸軍中将と長参謀長の沖縄着任はそ れぞれ、前任者の職務放棄と懲罰人事の賜物であったという。牛島司令官の前任者、渡辺中将は陸軍卑怯者三羽烏(富永中将、黒田中将、渡辺中将)の一人であ り、仮病を使って勝手に親任官である軍司令官職を放棄した。長参謀長は以前、関東軍司令官であった時の梅津参謀総長に向かって司令部バルコニーから放尿し たことがあり、梅津は「長君だから仕方ないなあ」などと平静を装っていたが、内心は激怒しており、参謀総長に就任したのを幸い、長中将を沖縄に送り込んで 見殺しにしたのである。梅津は、沖縄防衛の要として長参謀長の作戦立案に不可欠だった第9師団を沖縄から抽出して台湾に配置した上、代替師団の第32軍編 入を長参謀長に請け合った参謀本部第一部長真田少将を更迭し、後任にはガ島で撤退した第17軍参謀長宮崎中将を据えるという人事を強行した。梅津の意を受 けた宮崎第一部長が、沖縄への一個師団増派を中止したのは言うまでもない。大本営はもちろん、現地の第32軍ですら米軍侵攻は台湾と信じていたとも言う。 さらに実際に米軍が近海に集結しても、沖縄本島の上陸地点を誤認した。
 このような具合であったから、牛島司令官はやる気なし、長参謀長 は空威張りするばかりであった。例えば両人の着任直後、昭和19年10月10日には沖縄大空襲があり、これ以後、軍・県政とも殆ど機能しなくなり、いわい る「壕」に入ることになるのだが、これほどの大空襲にもかかわらず前日、軍首脳はほぼ全員が兵棋演習のため那覇の「沖縄ホテル」で宴会して泥酔、目が覚め た時には辺り一面焼け野原だったという。このような軍部の出鱈目ぶりに加え、現職沖縄県知事までもが東京に出張したまま帰らず、そのまま香川県知事になっ てしまうという、もはやどうしようもない事態にいたった。最後の官選沖縄県知事として、絶望的な戦局の中、県民保護に努めて殉職した島田知事が地方長官と して沖縄県に送り込まれたのは、島田知事の上海警察部長時代に知り合った牛島司令官が内務省(当時の内相は安藤陸軍大将)に頼み込んだからともいう。その ような中で、戦局の実際も、上層部の様子も知る由もなく軍に徴用された女子学徒看護隊がひめゆり学徒看護隊を含め、4隊もあったことは現在、余り知られて いない。
 その4隊とは、「ひめゆり」「白梅」「ずいせん」「積徳」であ る。積徳高等女学校は私立、その他は公立であった。
 ひめゆり学徒看護隊は、沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校 の生徒により編成され、昭和20年2月から沖縄陸軍病院(南風原陸軍病院)で看護訓練を開始、3月24日、同病院に看護補助員として配属された。すでに沖 縄陸軍病院は空襲のため、戦時体制を取って南風原町内の壕に分散しており、これらを南風原陸軍病院第一外科、第二外科などと呼称する。例えば、沖縄陸軍病 院では平時の一般外科と眼科、口腔外科、耳鼻咽喉科を統合して第一外科、内科を第二外科、伝染病科を第三外科とし、さらに病院本部、経理部があった。院長 は軍医中佐で、軍医・看護婦・衛生兵・薬剤官で約350人であった。第三外科では軍医2人、予備軍医1人、衛生兵下士官4人、看護婦長2人、看護婦30人 の正規職員のもとにひめゆり学徒看護隊員が配属された。この、壕に避難し分散する形式は第32軍指揮下の師団病院でも踏襲された。6月18日、ひめゆり学 徒看護隊に解散命令が出たが、動員220人中123人が犠牲となった。これは女子学徒看護隊のなかで最大であるが、沖縄陸軍病院は現地最上級司令部である 第32軍直轄であるため、規模も最大であった。解散命令後、行き場を失ったひめゆり隊員は敗走する日本軍とともに糸満周辺を彷徨して犠牲者を出し続け、6 月22日、南端の荒崎海岸岩壁にて引率の教頭を含む教員・生徒16人が集団自決した。
 白梅学徒看護隊は沖縄県立第二高等女学校生徒より編成された。昭 和20年3月から第32軍衛生部、第24師団(山部隊)野戦病院による看護訓練を受け、同師団野戦病院に配属された。当初は八重瀬の師団野戦病院壕で看護 補助員として活動したが、6月4日戦局の悪化にともない解散命令が出された。引率教員とともに真栄里付近を彷徨、第24師団野戦病院の一部職員と合流し最 後の国吉病院壕で6月22日まで留まった。動員生徒46人中17人が犠牲となった。ここに現在白梅の塔が建立されており、自決の碑、納骨堂も併置されてい る。
 ずいせん学徒看護隊は沖縄県立首里高等女学校生徒(一部昭和高等 女学校生徒)により編成された。昭和20年1月25日に動員され、第62師団(石部隊)野戦病院により看護訓練が行われた。3月以降、同師団野戦病院に配 属されたが、野戦病院は各地の壕に分散されており、学徒看護隊もそれに伴い分散配置された。浦添、首里、摩文仁を野戦病院移転とともに移動し、最終的には 6月に米須の第62師団壕に合流したが、同10日と19日の二度に渡り解散命令が出された。しかし、行き場所のない学徒看護隊はそのまま壕に留まるしかな かった。軍は戦局が悪化すると足手まといになりそうな学徒看護隊に解散命令を出し見捨てようとするのである。23日に壕が総攻撃されて第62師団は玉砕、 ずいせん学徒看護隊は動員数61人中33人が犠牲となった。現在ここに慰霊碑が建てられているが、銘版に刻まれているずいせん学徒看護隊関係犠牲者数は 105人である。
 積徳学徒看護隊は私立積徳高等女学校生徒により編成された。白梅 学徒看護隊とともに第24師団野戦病院で看護訓練を受け、3月23日、同野戦病院豊見城分院に配置された。5月下旬には軍の南部撤退に伴って糸洲の壕に移 動し、野戦病院分院の設置とともに6月26日の解散命令までここに留まった。これは沖縄戦の学徒看護隊としての動員期間では最も長い。すでに第32軍は司 令官、参謀長の自決後で崩壊しており、最後の第24師団野戦病院長小池軍医少佐の「生きて沖縄戦の実態を伝えよ」との訓辞を受け、積徳学徒看護隊は米軍に 投降した。動員数25人中4人が犠牲となった。現在この糸洲壕に慰霊碑が建てられている。
 通常保護されるべき未成年の非戦闘員が軍事要員として動員され、 大量の犠牲者を出すこと自体も異常であるが、それが日本本土で沖縄のみに行われた事が沖縄戦の諸相を特に異様なものとしている。当初述べたが、軍首脳にあ る沖縄県民に対する民族的差別意識がその異様な諸相をさらに助長している。首里の司令部を放棄し南部摩文仁の壕に移動したのは一体なんのためであったか? 沖縄戦の犠牲者は5月末から第32軍玉砕までのたった1か月あまりに集中しているのである。
 沖縄戦で犠牲になった女子学徒看護隊の象徴と見られているひめゆ りの塔が建てられているのは、沖縄陸軍病院第三外科が最後に設置された壕の上である。場所は現糸満市伊原の国道331号線沿いで常に修学旅行や観光客のバ ス、レンタカーで賑わっている。そのひめゆりの塔とは国道をはさんで向かい側のさとうきび畑のなかには、沖縄陸軍病院本部と第一外科が最後に設置されてい た壕があり、慰霊碑も立っている。第三外科壕と同様、本部壕と第一外科壕、さらには第二外科壕でも米軍の攻撃と自決により、ひめゆり学徒看護隊から多数の 犠牲者を出したが、第三外科壕と比べて知られていないのはなぜか?実は戦後米軍統治下で地元村長に任命された人物の娘が、戦時中ひめゆり学徒看護隊員とし て第三外科壕で亡くなったため、父親である村長が慰霊碑を第三外科壕上に建立し、ひめゆりの塔としたのである。これは女子学徒看護隊慰霊碑の中でも最初期 であり、以後この塔を軸としてひめゆり学徒看護隊の悲劇が伝えられるようになったのである。
 本稿は沖縄戦のほんの一端を述べたに過ぎないが、犠牲者一人一人 の人生に思いを致す時、その重さは等しく、人数で鼎の軽重を問うのではなく、このような犠牲者を出すにいたった沖縄作戦全体の経緯や、戦時体制そのものに も目を向ける必要があることは言うまでもない。 


ずいせん隊碑(米須地区)


積徳隊碑(糸洲地区)


沖縄沖縄陸軍病院第一外科碑(伊原地区)